「お前、スターになりたいんだろう?」不振の銀次を救った闘将・星野仙一からの“金言”
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

現役時代は「燃える男」、監督としては「闘将」と称された星野仙一が天に召されて8年。昭和・平成の球界を熱狂させた名将の実像に迫る連載第12回は、2013年に東北楽天ゴールデンイーグルスを初の日本一へと導いた打の主軸・銀次に話を聞いた。2011年3月11日、未曾有の大震災に見舞われた直後、帰郷を望む選手たちを押し留めた星野の真意とは何だったのか。そして、激しいぶつかり合いの末に見えた指揮官の深い愛情まで、知られざるエピソードを明かしてもらった。【銀次インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】
【岩瀬洋志】「普段はピタッとした服が好き」リアルな私服事情と毎日パック&スチーマーで整える“完璧素肌”の裏側

新球団誕生、そして地元球団へ

2004(平成16)年秋、日本プロ野球界を大きく揺るがした球界再編騒動の末、東北の地に新たなプロ野球球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生した。当時、岩手県・盛岡中央高校の3年生だった銀次にとって、このニュースは特別な響きを持って届いていた。かつて1970年代にロッテオリオンズが準フランチャイズとして、県営宮城球場を使用していた時期はあったものの、地域に根差した本格的な球団が東北に生まれるのはNPB史上初めてのことだったからだ。
「東北に球団ができたんだな、という嬉しさがありましたね。僕自身、“プロに行きたい”という思いが何より強かったので、最初から“絶対に楽天に入りたい”と強く意識していたわけではないですけど、地元の東北に球団が生まれたこと自体にはすごく興味を持っていましたし、素直に嬉しかったです」
高校通算24本塁打の強打の捕手として注目を集めていた銀次は、05年の高校生ドラフト3巡目で地元・イーグルスから指名を受ける。晴れて新生球団の門を叩いたが、プロの壁は想像以上に高かった。当時、チームを率いていたのは、名将・野村克也である。捕手出身の野村が求める緻密な「考える野球」、その高い要求レベルに、若き日の銀次は圧倒されるばかりだった。
「野村さんは厳しいだろうなというイメージはもともと持っていました。実際にプロに入ってその『考える野球』に触れたとき、正直言って“このレベルにはついていけないだろうな”と感じてしまったんです」
自身の生き残る道を模索した銀次は、プロ4年目に大きな決断を下す。バッティングの技術には自信があった。守備の負担を減らし、打撃一本で勝負したいという意向を、当時の二軍監督であった松井優典に直訴したのである。こうして捕手から内野手へのコンバートが決まった。その一方で、野村監督が注入したID野球の精神は、着実にチームの土台となって蓄積されていった。
「野村さんが作ってくれた土台というのは、すごく大きかったと思います。特に正捕手だった嶋(基宏)さんがいちばん野村さんに怒られていたし、配球やリード、野球に対する考え方を徹底的に叩き込まれていた。いい意味でも悪い意味でも、チーム全体に野村野球が定着していた感覚がありました」
09年シーズン限りで野村が退任し、マーティ・ブラウン監督による1年間の指揮を経て、11年にチームの指揮権は「闘将」星野仙一へと託されることになる。高卒からの5年間、主としてファームで研鑽を積み、前年の10年に念願の一軍デビューを果たしていた銀次にとって、プロ6年目となる11年は勝負の年であった。
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
この記事をシェアする
この記事のタグ
関連記事








