「クビ寸前だった」今岡真訪を救った星野仙一の一言…阪神V戦士が明かす“闘将”の素顔
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。
今岡真訪「星野さんは救世主だった」阪神優勝を支えた“闘将”との知られざる関係
一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第10回は、星野が阪神監督に就任した後にその才能を開花させ、主軸を担った今岡誠(現・真訪)に話を聞いた。【今岡真訪インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】

「防波堤」として、今岡を守り続けた星野仙一
「大学3年生の頃だったと思います。僕や井口(資仁)、高橋(由伸)といったドラフト候補が集まって、全日本の沖縄合宿をしていたところ、当時は解説者をされていた星野監督が来られた。そのメンバーの一人だった筒井壮(現・阪神タイガース外野守備兼走塁チーフコーチ)は星野監督の甥っ子で、“おじちゃんと飯を食べることになった”ということで、僕らも一緒に食事をさせてもらうことになったんです」

当時の大学生にとって、「星野仙一」という名前が持つ威圧感は想像を絶するものだった。甥であるはずの筒井ですら、「おじちゃん」を前に、「はい、はい」と直立不動で敬語を使っている。その光景を見た今岡たちは、完全に圧倒されていた。
「もう、緊張しすぎて頭が真っ白でした。完全に記憶が飛ぶくらい緊張しまくって、一言もしゃべれなかったのを覚えています」
それから数年の時が流れた2002(平成14)年。星野が阪神の監督に就任した。あの沖縄での邂逅(かいこう)以来である。このとき、今岡はプロ6年目を迎えていた。「監督と選手」という関係になって以降、今岡は星野の大きさを、身をもって知ることになる。
「それまでの5年間、僕はドラフト1位でありながら期待に応えられず、ミスも多かった。世間からもマスコミからも、なんなら球団内からも、“今岡なんか……”という冷ややかな目で見られていたし、常に反対勢力の目にさらされている状況でした」
しかし、星野は徹底的に今岡の「防波堤」となった。もし、今岡のいないところで、誰かが星野に「今岡は使えないんじゃないですか」などと耳打ちしようものなら、闘将は烈火のごとく激怒し、「お前、オレに文句あるのか!」とムキになって反論したという。
「星野監督は、マスコミに対しても、ファンに対しても、僕らの防波堤になってくれた。こんな人は、今も昔も見たことがありません。僕もその後、指導者を9年やりましたけど、いつも頭にあったのはこの姿でした。選手のミスや不甲斐なさを選手のせいにするのは簡単です。でも本当は、言葉ではなく背中で、“オレの前で選手の文句を言うな”と示せる存在でいなきゃいけない。そんなことを、僕は星野監督の背中から教わったんです」
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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