【衝撃の告白】GG佐藤が明かす北京五輪の裏側…“張り切った代償”ゆえ「実は痛み止めで頭がフラフラだった」
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

「長嶋さんの前でいいところを……」と、右肩を故障
しかし、夢の舞台への切符は、同時に悪夢の始まりでもあった。代表合宿の際に初めて星野と対面した。指揮官は、GGに「レフトでの起用を考えている」と告げたという。その直後には、読売ジャイアンツの2軍本拠地であるよみうりランドでの合同練習が行われた。このとき初めて、「君がGGくんか。頑張れよ」と、視察に訪れていた「あの長嶋茂雄」に声をかけられた。テンションが上がった状態のまま、外野ノックを処理すると、その返球の際に右肩を痛めた。トレーナーには伝えたものの、「このチャンスを逃したくない」という一心で、星野には伝えず、座薬や鎮痛剤を駆使して痛みを押し殺す日々が始まった。

「完全に舞い上がっていましたね。“よし、長嶋さんの前でいいところを見せよう”と思いっ切り送球したら、その瞬間に激痛が走った。今だから言えますけど、そこからはずっと肩が痛すぎて薬漬けでしたよ。注射も打ったし、飲み薬も飲んで、ケツから座薬も入れて。薬を飲んでいるから感覚が麻痺しているのか、変なフラフラ感もありましたね」
体調万全ではなかった。それでも、GGに悲壮感はなかった。いや、それは「緊張感はなかった」と表現したほうが正確だろう。当時の心境について、本人はこう振り返る。
「確かに体調が万全ではなかったし、不慣れなレフトを守ることにもなったけど、それでも、“別に国際大会で負けたとしても、自分の生活を奪われるわけじゃない”という思いはあったし、“なんとかなるだろう”と安易に考えていた部分も正直ありましたね」
プロ入りが遅く、レギュラーを奪取したこのとき、すでに30歳になっていた。日々のペナントレースを、GGは「命懸けで臨んでいた」と振り返る。しかし、国際大会である北京五輪には、そこまでの覚悟はなかった。本人が振り返る。
「それまで、代表経験なんてないから、あくまでも、“日々の生活のほうが重い”と考えていたので、《日の丸の重さ》を知らなかったんです。北京に着いてからも、球場は仮設のもので、まったく立派なスタジアムじゃなかった。選手村ではなく、日本料理が充実して、日本人スタッフの多い日本のホテルに滞在していた。雰囲気としては、“普通の地方遠征”という感覚で、オリンピックという実感がほとんどないまま大会が始まりました」
このとき、チームを包んでいたのは、星野監督が公言し続けた「金メダル以外はいらない」というすさまじい熱量だった。しかし、その思いは、「銀メダル、銅メダルには価値はない」という逆説的な意味合いを持つことにもなっていた。当時のGGはまだそのことに気づいていない。いや、彼だけではなく、他の代表選手たちも、そして星野自身も気がついていなかった。GGは言う。
「間違いなく、“金メダル以外はいらない”という星野さんの言葉は、僕たちを鼓舞することになった。細かいことは何も言わずに、“金メダルこそすべて”というメッセージは強烈だったけれども、“もしも、金メダルを獲れなかったら……”という発想を誰も持っていなかった。それが後々、大きな意味を持ってくることになるんですけど……」
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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