「星野さんは僕らを帰さなかった」嶋基宏が今だから語る東日本大震災。闘将の冷徹な決断の裏にあった“野球人としての覚悟”
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。
一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第8回は、星野が監督として初めて日本一になった楽天時代の選手会長にして正捕手の嶋基宏に話を聞いた。【嶋基宏インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】
星野監督は日本一の裏で満身創痍だった――。鉄拳制裁を封印した楽天時代、嶋基宏が触れた「究極の優しさ」

運命に導かれた、背番号《77》
昨年までは東京ヤクルトスワローズのユニフォームを着ていた。そして2026年シーズンからは中日ドラゴンズのヘッドコーチとなった。指導者として、着実に経験を積んでいる嶋基宏の背中には背番号《77》が躍っている。かつて星野仙一が、ドラゴンズ、阪神タイガース、そして東北楽天ゴールデンイーグルスで身にまとった番号である。闘将・星野仙一の代名詞でもある背番号《77》を、嶋は身につけている。
「球団から、“背番号《77》が空いている”と連絡をいただきました。だから、迷わずつけさせていただきました。本当に運がよかったと思いますし、同時に責任の重さを強く感じています」
昨年までは背番号《73》だった。こちらは、恩師である野村克也が、スワローズ監督時代に背負い、チームを常勝球団に導いていた際に背負っていた番号だ。闘将・星野仙一と、知将・野村克也。球史を代表する名監督の下で、若き日の嶋は研鑽(けんさん)を積んだ。06年から09年まで、野村はイーグルスの監督を務めた。嶋がプロ入りしたのは07年のことで、野村とは入団からの3シーズンをともに過ごした。
「頭を使ってやっていくというのが野村監督で、気持ちだったり、相手に対する闘う姿勢であったり、そういうことで相手を上回っていこうというのが星野監督のやり方でした。“真逆”というわけではないけど、ちょっと戦い方は違いましたね」
すでに現役生活を終えた今、改めて星野と野村を比較した上で、嶋は言う。
「当時は自分も選手だったので、目の前の試合に無我夢中だったけど、改めて振り返ってみると、野村監督の下で、“頭を使って、いい準備をしてゲームに臨む”ということを学んで、星野監督の下で、“闘争心を持って最後まで戦い抜く”ということを経験しました。決して、野村監督は闘争心がないというわけでもないし、星野監督も“準備は大事だ”とか、“狙い球をちゃんと決めろ”と指示をしていたけど、僕にとっては、野村監督と星野監督の教えがバランスよく、ちょうどいいあんばいだったと思いますね」
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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