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「窪塚洋介、1990年代を語る」ファッションとの出会い、“裏原”との接点、音楽とカルチャーの相互作用【連載Back to 90s】

執筆者: 編集者・ライター/高田秀之

ストリートとハイブランドの融合への想い

窪塚洋介、1990年代を語る。撮影は東京・原宿で行われた

――あの頃からハイブランドとストリートのタッグが始まった気がします。

窪塚「20代の頃にそうなればいいのになって思った通りになったんですよね。俺、昔から願っていたことがかなうっていうのがいくつかあって。自分自身の話でいうと、『ハリウッドの大きい仕事したいな』とか、これは小っちゃい頃からあったけど、絶対あるって確信があったんです。それがマーティン・スコセッシの映画で成就して(映画『沈黙 -サイレンス-』)、ストリートとハイブランドのあいだくらいが流行ればいいのにっていうのも思ってて。

当時はまだ20代だから自分では買えないけど、なんかそう思ってたのが、シュプリーム×ルイ・ヴィトンで具現化されて。『あ、きた、時代』って。めっちゃ自分が生きやすくて着やすい、ちょうど自分の年齢的にもいい温度のときにそうなってくれたから、もう願ったり叶ったり。あとは日本の芸能界が崩壊してほしいと思ってたんですけど、そしたらやっぱりなってるじゃないですか、ある意味」

――独立とか増えましたよね。

窪塚「SNSの普及もあったと思うんですけど、マジでこうなればいいのになって思った感じになってるから、どんどん自分自身が生きやすくなってる。年々自由になっていってる感覚はありますね」

――ストリートとハイブランドの中間があればいいと思ったのはなぜですか?

窪塚「なんだろうな。当時、ハイブラはハイブラで」

――ストリートとは完全に分かれてましたよね

窪塚「当時もそういうハイブラと仕事をすることがなかったわけじゃないけど、なんか、その行為がダサく見えるんじゃないかっていう。今はそんなことを気にしないけど、どう思われるかみたいなことを気にしてた時期だったから、もっとストリートっぽかったらいいのになっていうのを思ってた。

自分が年齢を重ねて、ハイブラはやっぱりプロの誇りと技術というか、伝統と歴史がすごいなとは思うし、いいものが持ってる『波動』みたいなものが自分を上げてくれるというか、開運みたいなエッセンスもあるっていうのを確信しましたね。

あ、あとショーン・キングストンが『スタンド・バイ・ミー』をサンプリングした『ビューティフル・ワールド』っていう曲があって、当時まがちんに『スタンドバイミーのレゲエあったら良くない?』って言ったら、めちゃ鼻で笑われたんですよ。そしたら何十年たって世界でバカ当たりしたじゃないですか。“これ、俺、言ってたし”って。それも自分が思って、成就してること。めちゃ小っちゃいけど(笑)」

――レゲエも真柄さんの影響ですか?

窪塚「まがちんですね、もろ。それまではヒップホップをずっと聴いていて、かっこいいなー、俺もこういうのやりたいなとは思ってたんです。まがちんもヒップホップのDJだったんだけど、あるとき、急にヒップホップをやめて、『レゲエやるからジャマイカ行く』って言うから、『俺も行く!』って付いて行ったんです。

ビーニ・マン(レゲエDJ)がいても、それが誰かもわからない、ディズニーランドにミッキーが横歩いてても気づいてない状態ですよ、まだ。でもそこでサウンドシステム(野外のDJイベント)に連れて行ってもらったり、まがちんがダブを録ったりしてるのを追いかけていってるうちに、ヒップホップでやりたいなーって思ってたラッパーの種が卍LINEで花咲いたって感じです」

――当時、よく行ってたお店というと、他には?

窪塚「ハーレム、ヘクティク、ワングラム、バウンティハンター……」

窪塚洋介、1990年代を語る。撮影は東京・原宿で行われた

――ショップは行かなかったんですか?メイド・イン・ザ・ワールドとかダウンオンザコーナーとか。

窪塚「行かなかったですね。雑誌を読み漁っていたから、当然知ってはいたけど。修司と一回行ったかな」

ヘアメイク佐藤修司さん「僕はよく行ってました」

窪塚「そう、そこで分かれるんですよ、ストリートの感じになっていく俺と修司で。シルエットが変わって、修司はモード系の服とかも着こなしてて、俺はダボっとしてるんです。ヒップホップのテイストっていうか、先輩方たちの真似をしてるんですよね。“パンツをこんなに下げるの?すごいな”“財布は持たないんですか”って。そういうのがいちいち全部カッコよかったんで。

さっきヘアメイク中に『smart』を見てて気づいたんですけど、2003〜2004年頃にちょっと不良っぽくなってるのは、明らかにヒップホップの影響ですね。このへん(02年7/8号)とかはジャマイカの影響でルードボーイっぽいんです。こういうエンジの色の、ピチピチのレザーの革パンツに同じ色のエアフォースⅠを合わせて、上はタンクトップとかを着てたりしたそのへんがいろんな格好してる時代の末期で、そこから完全にストリートになっていくんです」

――2003年ってことは、映画『ピンポン』とかの頃ですかね?

窪塚「そうですね。ファイブオーのレッドくんとか、KIDくんまわりとか、裏原の中でもちょっとルードな先輩たちとだんだん仲良くなって、遊ぶようになって、そこのエッセンスが入ってきてた」

――同じ原宿でもコミュニティの違いがあったんですかね。

窪塚「みんな仲は良いんだけど、いつも集合してるのはイツメンで、そこは派閥っていうほどじゃないけど、イベントでもないとあんまり一緒にならない、みたいな感じでしたよね」

――以前のインタビューで「学校で学べないこともストリートで学んだ」って言ってましたけど。

窪塚「それは今もそうですけど、特に今の時代とか、学べてんのかなぁ?っていう。その世代じゃないから、わかんないし、口うるさくも言いたくないですけど。ま、早い段階でテレビは嘘をついてるっていうのは気がつけたんで、K Dub Shineとか、そういったラップの曲のおかげで。

ラッパーたちはKRS・ワンとかアメリカのラッパーに気づかせてもらって、それが継承されて俺が気がついて、テレビ嘘くせー、テレビ嫌いってなって、23歳くらいのときにテレビに出ない、映画だけでやっていくってなったんです。当時はサブスクもないけど、根拠のない自信で、絶対いけるって思ってたんですよ。そこでテレビ業界とは大きいお別れがあって、いまだに27年ぐらいテレビドラマに出ていないし、テレビ業界からすれば『あの人はいま?』状態だと思うんですけど。そういうことに早い段階に気づけて今に至るのは自分の財産というか、すごく大きいターニングポイントだったと思う。

それで、ヒロシくんがすすめてくれた『凶気の桜』が映画化して、キングギドラがその音楽をやってくれたり、なんか自分のメッセージとか生き方が時代とシンクロしてるみたいのが面白すぎちゃって。俺の一挙手一投足に世界が反応してくれるみたいな。いわゆる承認欲求的なことだとは思うけど、それをすごい満たしてくれたおかげでお腹いっぱいになってた。

この人たちがどう思うかより、俺が俺をどう思うかだろうっていうとこに気づくぐらいのことをたっぷりもらったんで、当時。そういうのを一回清算するみたいな感じで落っこちちゃったけど、それはそれで必要な流れだったと思うし、すごい紆余曲折の急転直下だったけど、今となっては、いい歩き方をしてこられたなと思います」

この記事を書いた人

流行通信社、ロッキング・オン社をへて、1990年に宝島社入社。Cutie編集長ののち1995年にsmartを創刊。2024年に退社し、現在はフリー。

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Website:https://smartmag.jp/

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