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「窪塚洋介、1990年代を語る」ファッションとの出会い、“裏原”との接点、音楽とカルチャーの相互作用【連載Back to 90s】

執筆者: 編集者・ライター/高田秀之

裏原宿カルチャーとの接点

窪塚洋介、1990年代を語る。撮影は東京・原宿で行われた

――16歳で役者デビューしてるけど、それで生活が変わったりしたんですか?

窪塚「あんまり変わらなかったですね。普通の高校時代をもうめっちゃ堪能してました。それも今思うと良かったなと思うんですけど。ストリートにいられたというか、普通の高校時代を経験したことが。ただ、妻夫木(聡)とかが『ストニュー(雑誌『東京ストリートニュース』)でスーパー高校生って出てきて、深夜にストニューの番組とかもやってて。こっちはデビューしてるのに、地元を歩いても声をかけられるわけでもないし。ま、振り返られるぐらいのことはあったけど、情けないっていうか、なんかそういう鬱屈(うっくつ)としたものはあったんですよ。

だから、早く東京に出たいっていうのがすごい溜まってて。デビューして1年2年ぐらいだから、そりゃそうだろうって感じだけど、当時、本人的には悔しい思いがあった。

それでしゃがみ込んでいた力が、卒業と同時にバーンと東京ではねた先で、まがちん(真柄尚武/HECTICオーナー)と出会うっていう。そこから今の裏原の流れがすべてが始まったんで。あの日、ミューズ(西麻布のクラブ)に行ってなかったら、今ここにいないかも、っていうのは大げさだけど、当時仲の良かった人が真柄さんを紹介してくれて、HECTICとかマスターピースとかは知ってたので、『まじかっ』て感じで。それから縁が始まって今日に至るので、あの晩が結構自分のターニングポイントだったと思う、特にファッションという意味では」

――そこから人の繋がりが広がっていったって感じなんですか

窪塚「シュプリームを着るようになったのもまがちんのご縁だし、(藤原)ヒロシくんもそうだし、ネイバーもWタップスもバウンティハンターも、ハーレム(渋谷のクラブ)に行くようになったのもまがちんの影響だし。そこからヒップホップシーンとも繋がっていって、その原点でしたよね」

――それが20歳くらいですか?

窪塚「えーと、19(歳)」

窪塚洋介、1990年代を語る。撮影は東京・原宿で行われた

――別のインタビューで、20歳の頃から服は買ってないって聞きましたけど。

窪塚「おかげさまで。服が幸福の“フク”かと思うぐらい、フクが追いかけて来てくれて(笑)。めちゃくちゃ助かりました。定期的に仲間とかにあげて撒かないと家の中で雪崩で死ぬなってぐらい。もっといっぱい持ってる人はいましたから、自分は全然整理してるほうだと思うんですけど。ホントにそのぐらいから、30代の中盤くらいまでたぶん一着も買ってなかったから。

何かのインタビューでよく行くお店を聞かれて『ユニクロです』って答えたら、それは書けないって(笑)。『ヒートテックかなぁ』『いや、記事にできない』って。でも、イケてると思われるために嘘をつくのは嫌だし、本当のことなんですよ。それぐらい買わないで、仲間の服を着ていて、だんだんハイブラと仕事するようになってからは、ストリートの自分の仲間のブランドの服に、ハイブラを1点だけ入れるみたいなコーディネイトになってきましたね。それはそれでなんか年相応感と、「締まる」感じがして。今日もこれ(リング)一点だけカルティエなんですけど、もらいものなんですよ。基本的にはもらい物生活者なんで(笑)。

でも最近は、自分でこれ欲しいなっていうものは買うようにはなったかも。徳島の小っちゃい会社がやってる藍染めの服とか、こういうところは残っていったらいい、応援したいって思えるものを」

――でも、もらうっていっても、自然と向こうから集まってきちゃうんですよね?

窪塚「シュプリームとかWタップスとかネイバーフッドは展示会のときに自分で選んでいますけど。でも、さすがにシュプリーム×ルイ・ヴィトンのときはギフティングは無理でしたね」

この記事を書いた人

流行通信社、ロッキング・オン社をへて、1990年に宝島社入社。Cutie編集長ののち1995年にsmartを創刊。2024年に退社し、現在はフリー。

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