RIP SLYMEが語る「まだ何者でもなかった頃」原宿で駆け抜けた1990年代ヒップホップ
執筆者: 編集者・ライター/高田秀之
「Dragon Ashの存在は大きかった。建志くんが僕らを面白がってくれた」
――じゃあ、当時は原宿で遊びも音楽活動もしていたって感じなんですね。
FUMIYA よくメンバーがウチに来るたびに、“足、洗ってもらっていいですか”って言ってました。足が臭くて(笑)。初めは何かが腐ってると思ったんですよ。“RYO-Zくん、なんか腐ってるみたいだから探してくれない?”って頼んだら、RYO-Zくんの足だったという(笑)。風呂がなかったから、水道で洗ってました。
RYO-Z いや、昔はブーツを履くのが流行ってたんで。ティンバーランドではなかったけど、ナイキのお気に入りを夏でも毎日履いてたら、そういうことになってたという。
――PESさんは新宿生まれなんですか?
PES いや、生まれはよくわかんないんですけど、気がついたら新宿に。TENETの世界ですね。で、アメリカンスクールでILMARIくんに会って、お互い日本語のラップを聴いてたから仲良くなって、一緒のイベントに行くようになったら、他のメンバーと出会って、みたいな。
――当時の原宿の思い出というと?
ILMARI 知り合いのお店からよくTシャツをもらってたんですよ。それを着倒していました。お金なかったから。
RYO-Z 洋服を買う余裕があったら、レコード一枚買ったほうがよかったですからね。上下一式とかもらえると、すごくありがたかったですよ。
ILMARI あとライブのリハを、お店が閉店してから貸してもらって、そこで練習したりとか。
RYO-Z お店にだいたいターンテーブルがありましたから。
――2001年のメジャーデビュー以降はすごく順調だったイメージが傍から見るとあるんですが。
ILMARI 結構Dragon Ashの存在は大きかったかもしれない。僕らのインディーズ時代の曲をラジオでかけてくれたり、TMCイベントに呼んでもらったり、それはm-floとかSHAKKAZOMBIEとかいろいろ出てたんですけど、建志くんが僕らを面白がってくれて、一緒にツアーを回ったりしてると、そこにレコード会社の人が見に来てくれていたりとか。
RYO-Z いろんな下地が90年代に作られて、2000年以降日本語でラップするグループが沸々と出てきていた時代だったのかなって気がします。建志くんもそうだし、スケボーキングやKICK THE CAN CREWとか、ケツメイシもいたし。ちょうどそういう時期にウチらも出ていったっていう。
ILMARI ケツメイシもクラブでよく対バンやってましたから。
RYO-Z あとバンドサウンドでラップするっていうミクスチャー的なものが盛り上がっていたし、いろんな方向から火がついたって感じですかね。
ILMARI 上の先輩たちがそういう下地を作ってくれていたのは大きかったと思います。イベントもいろいろ出させてもらったし。
――メジャーデビューしてからは金銭事情もだいぶ違ったんでしょうか?
ILMARI 初めの頃は相変わらずお金はなかったですけどね。当時、トラックの宣伝カーをやってもらってたんですけど、僕は渋谷から駒沢まで普通に歩いてましたから(笑)。
RYO-Z いまは、もっと歩いてるんだろ?
ILMARI いまは健康のために歩いてますけど(笑)。その頃、SUさんに“印税ってどのくらい入るんだろう”って聞いたら、“100万くらいかな”って言うので、“え! そんなに!”って驚いてたら、全然、そんなことはなくて。
PES SUさんソロバンがあったんだよね。
SU 僕のソロバンだと、そうだったんですけど(笑)。
この記事を書いた人
流行通信社、ロッキング・オン社をへて、1990年に宝島社入社。Cutie編集長ののち1995年にsmartを創刊。2024年に退社し、現在はフリー。
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