1990年代の撮影は「言えないこともいっぱい(笑)」名脇役・渋川清彦が今だから語れる“あの頃”
執筆者: 編集者・ライター/高田秀之
いかりや長介と現場で○○トーク
――ちょうど業界的にも盛り上がっていた頃だよね、2000年ぐらいは。
渋川「ファッションブランドのイベントとかに行くと、すごい人が入ってましたもんね。ハコもデカかったし」
――役者としては98年の『ポルノスター』の映画デビュー以前にテレビドラマにも出ていたみたいだけど。
渋川「『踊る大捜査線』が一番最初なんですよ。その少し前から、モデルから俳優になるという流れがあったと思うんですけど、それでオーディションの話が事務所に来てたんだと思うんです。」
――初めての演技経験の感想は?
渋川「いやー、あんま覚えてないんですよね。ただ、暴れてるだけだったんで。初めて役者さんを生で見て、よく覚えてるのは鼻の中がすごく綺麗だったこと(笑)。毛が一本もなくて。あと、いかりや長介さんに会えたこと。ちょっとロカビリーやウェスタンの話をした記憶があります」
――『ポルノスター』の頃になると意識もちょっと違ってくるのかな?
渋川「うーん、でも当時は何も分かってなかったですけどね」
――豊田監督の作品への出演は、そこから今でもずっと続いてますよね。
渋川「長いですね。出てないのは一作品だけで、あとは全部出てますね」
――初めは豊田さんから指名が来たの?
渋川「これもナン・ゴールディン繋がりなんですよ。俺の写真が使われてた『TOKYO LOVE』のポストカードを豊田さんが持っていたらしくて、『ポルノスター』のオーディションのときに誘ってもらったんです」
――モデルと役者と並行していたわけですが、そのとき自分ではどうだったんですか?
渋川「あんまり分けずにやってた感じです。今でも(モデルの仕事が)来ればやるだろうし。でも俺が出ていた映画の世界と比べると、ファッションの世界は裕福だなって感じはしてましたよ。出てくる朝ご飯とかが、ちょっと違うというか、洒落たものが出てくるというか。LA BOHEM(ラ・ボエム/イタリアンレストラン)とか洒落たところを知ったのもファッション業界でだったし。東京出てきて初めて行くようなところもファッションの人たちに連れて行ってもらって、いろいろと知ったなって感じ」
――2006年にKEEから渋川清彦に名前を変えてますが。
渋川「確か30歳で変えたんですよ。区切りで変えた感じです。字画も調べずに、地元(群馬県渋川市)の名前をとって。そのとき、渥美清さんにハマってたんで、苗字と名前のさんずいが同じとか、時代劇にもハマってたから、国定村の国定忠治とか、そういうののマネで」
この記事を書いた人
流行通信社、ロッキング・オン社をへて、1990年に宝島社入社。Cutie編集長ののち1995年にsmartを創刊。2024年に退社し、現在はフリー。
Instagram:@htakada1961
Website:https://smartmag.jp/
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
この記事をシェアする
この記事のタグ