「私は殿堂入りパーティーに呼ばれなかった」権藤博が語る“星野仙一の最期”と、最後まで埋まらなかった二人の距離感
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

北京五輪——監督人生唯一の屈辱
権藤の発言にあるように、ドラゴンズ、タイガース、そしてイーグルスと、指揮を執った3球団すべてで、星野は胴上げを経験している。しかし、その監督人生を振り返ってみると、唯一の例外がある。2008年、北京五輪である。
「金メダル以外はいらない」と宣言して臨んだオリンピックの大舞台。しかし、星野ジャパンは北京の地で無残に散った。準決勝で韓国に敗れ、続く3位決定戦でもアメリカに完敗。上位3カ国には5連敗を喫し、よもやの4位に終わった。帰国後も星野を責める論調はしばらくの間続く。星野の監督人生において、唯一といっていい屈辱だった。
「オリンピックの大舞台など、そうそううまくいくものじゃないから。短期決戦は難しいんです。昨年の阪神のように、ペナントレースで10ゲーム以上引き離していたって、日本シリーズで負けることもある。結果的に野球の神様は星野に微笑まなかったけど、それはしょうがないこと」
このとき、星野の参謀を務めたのは、東京六大学時代からの盟友である田淵幸一、山本浩二だった。北京五輪前年に発売された星野の自著『星野流』(世界文化社)には、こんな一節がある。
《人間、熱くならなければいい仕事ができるはずがない。大学時代から同期の田淵(ヘッド兼打撃担当)にしても山本浩二(守備・走塁担当)にしてもそれは同じで、三人で生涯一度の「同じユニホーム」を着て「同じ目的」に挑めることの喜びの中にいる。(中略)仲は確かにいいけれど、みんな監督もなにもやってきて決して仲良し軍団なんかではない、ということはここでも断言しておきたい。》
しかし、世間はそう見なかった。メダルを獲得できなかったことで、大会終了後には「お友だち内閣」と批判を受けることになる。本連載において、田淵は次のように、反省の弁を述べている。
《オレ自身は、決して《お友だち内閣》だとは思っていなかったし、公私を分けるために、《仙ちゃん》ではなく、《監督》と言うように意識していたけど、浩二は普段通りに星野のことを《仙》と呼んでいた。やっぱり、他人から見れば、それは《お友だち内閣》と言われても仕方なかったと思うな》
それを受けて、権藤は言う。
「やっぱり、そういうことをやっておったんじゃ勝てないですよ。大学時代からのつき合いがあるから気心は知れているかもしれない。でも、それだけでは勝てない。現役時代から星野は、“オレがこの世界を牛耳って、天下を取るんだ”という思いで生きてきた。それを実現する最大のチャンスだったけれど、残念ながらああいう結果に終わってしまった……」
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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