「私は殿堂入りパーティーに呼ばれなかった」権藤博が語る“星野仙一の最期”と、最後まで埋まらなかった二人の距離感
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。
「燃える男」はハッタリだった……。名伯楽・権藤博が今明かす、投手・星野仙一が“広島戦”を避けて“巨人戦”にこだわった驚きの裏事情
一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第7回は、星野の現役最晩年に中日ドラゴンズの一軍投手コーチを務めた名伯楽・権藤博に話を聞いた。【権藤博インタビュー全2回の2回目/第1回を読む】

年上の大物、実力者の懐に入り込む
1998(平成10)年、横浜ベイスターズの監督として日本一に輝いた権藤博は、星野仙一のことを「運のいい監督だった」と言い、「監督とGMの視点を持つ男」と評した。改めて、その理由を問うた。
「星野は運のいい監督だったと思います。監督というのは、いくら優秀でも選手に恵まれなければ勝つことはできませんから。ただ、彼の場合はたまたま選手に恵まれたわけではなくて、GM的な視点を持って、チームの足りないところを見極めて選手を獲得していた。それは、強くないチームだから可能だったんだと思うんです」
星野が最初に監督を務めた1987(昭和62)年の第一次中日ドラゴンズから始まり、96~01年の第二次政権、02~03年は阪神タイガース、そして11年からは東北楽天ゴールデンイーグルス。いずれも、優勝から遠ざかっていたチームを率いることになり、大胆な血の入れ替えを断行して、チーム強化を推進した。
「強くないチームだから、思い切ったチーム改革をすることができた。そして、中日、阪神、楽天と、それぞれの球団で優勝した。きちんと答えを出してきたから、球団も星野の要望を認めてきた。その辺は球団フロント、親会社もうまいこと転がされているわけだけれど、それが星野の持ち味であり、きちんと結果を出しているわけだから誰も文句のつけようがないんですよ」
ドラゴンズの親会社・中日新聞社の社長であり、長きにわたってオーナーを務めた加藤巳一郎(みいちろう)は熱烈な「星野派」として知られている。加藤オーナーは、星野のよき理解者だったことで有名だ。
「巳一郎さんは、“星野、星野”と、何でも認めていましたからね。星野は川上哲治さんにもかわいがられていたように、年上の大物、実力者に入り込んでいくのがとても上手だった。選手には徹底的な闘争心を求めて厳しく接していく。その一方では実力者の懐に屈託なく飛び込んでいく。それが星野の大きな特徴だと思います」
チームを俯瞰して戦力状況を冷静に分析し、足りない部分は積極的なトレードで補っていく。それこそ、権藤が口にした「GM的視点」だった。そのためにはオーナーに代表される実力者、有力者からの後ろ盾が欠かせない。こうして戦力を整えた上で、選手たちには徹底的な闘争心を求める。そのためには鉄拳制裁も辞さない厳しさがあった。それが、星野流統率術である。権藤の見立ては明快だった。
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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