連載真説 星野仙一 ~誰も知らない“鉄拳制裁”の裏側~

「星野仙一には総理大臣になってほしかった…」元ヤクルト・松岡弘が今明かす、“故郷の大先輩”の巨大すぎる器と帝王学

執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

 現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに7年が経過した。一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第4回は、岡山・倉敷商業高校の一学年後輩である松岡弘に話を聞いた。【松岡弘インタビュー全2回の2回目/第1回を読む】

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「下級生への暴力なんてなかった」元ヤクルト・松岡弘が証言する、高校時代の星野仙一が怖くても慕われた理由

「高低」を意識していた松岡と、「横幅」を重視した星野

「高低」を意識していた松岡と、「横幅」を重視した星野

 1967(昭和42)年、ドラフト5位でサンケイアトムズ入りしていた松岡弘に遅れること1年、星野仙一が中日ドラゴンズに入団したのは翌68年ドラフトのことだった。

「プロで再会したとき、高校時代と比べると身体が大きくなっていたし、表情は柔らかく、優しくなっていた気がしましたね。だけど試合に入ると一変して、一気に厳しくなる。それは高校時代のままだった。だから、対戦するときはハンパなく怖かったよ。打席に入るときも、マウンドの僕に向かって、“おい、マツ。わかってるな”って言うわけよ。要は“厳しいコースに投げるな、甘いボールを投げろ”って言うことですよ。逆に僕が打席に立つときには、“お願いしますよ”って、冗談で言ったりしてね(笑)」

 星野は69年から82年まで、14年間の現役生活において146勝(121敗34セーブ)を記録した。一方の松岡は68年から85年までの18年間で191勝(190敗41セーブ)という成績を残している。1970年代、両者はともにチームのエースとして切磋琢磨した間柄だ。松岡から見た「投手・星野評」を尋ねる。少しだけ考えた後に、松岡は言った。

「一人の投手として見た場合、正直言えば負けているとは思わなかったし、星野さんも自分が勝っているとは思っていなかったはず。ただ、星野さんには誰にも負けない闘争心があった。1球に賭ける強い思いがあった。彼は146勝かもしれないけど、1勝、1勝の重みはとても大きかったし、僕の勝利の何十倍もの重みがあったと思う。何しろ、そのすべてが《魂のボール》だったから」

 そして、松岡の話は技術面へと及んだ。

「星野さんの身長は178センチぐらいだったと思うけど、身体のバランスがすごくよかった。腰回りが安定していて、下半身と上半身のバランスがすごくいい。逆に僕は186センチで、ある程度の高さがあったから上から投げ下ろすことで高低を意識した。一方の星野さんは高低ではなく、シュートやスライダーと横幅を意識していた。ピッチングスタイルは正反対だったね」

 公称180センチの星野と186センチの松岡。当人による比較は、「なるほど」と感じさせるものだった。

この記事を書いた人

1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。

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