「下級生への暴力なんてなかった」元ヤクルト・松岡弘が証言する、高校時代の星野仙一が怖くても慕われた理由
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに7年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。
一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第4回は、岡山・倉敷商業高校の一学年後輩である松岡弘に話を聞いた。【松岡弘インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】
「星野仙一には総理大臣になってほしかった…」元ヤクルト・松岡弘が今明かす、“故郷の大先輩”の巨大すぎる器と帝王学

倉敷商業高校後輩・松岡が語る「星野先輩」
「下級生への暴力なんて、まったくなかった。点を取られたりすると、怒りの感情を全然隠そうともしないから、“怖い先輩だな”とは思っていたけど、その感情はすべて自分に対するもので、他人に向けられることなんてなかったよ」
倉敷商業高校時代の星野仙一について、松岡弘が振り返る。1967(昭和42)年ドラフト5位でサンケイアトムズに入団し、長年にわたってヤクルトスワローズのエースとして活躍した松岡は、同校の1学年後輩として「先輩・星野」の蒼き日々をともに過ごした。
「決して不良とか、ガキ大将というわけじゃない。だけど、人がいじめられているのを見ると黙っていられないタイプで、何かあれば真っ先に飛び出していく。野球部の部長や先生たちも、何かトラブルがあっても、“星野に任せておけ”という感じだった。校内では有名人だったし、人気者だったから、結構モテたはずだけど、女の子には目もくれずに野球一筋。そんな印象がありますね」
高校入学当初、松岡は内野手だった。本人曰く「同級生10人の中で10番目の選手だった」という。しかし、高校2年の夏に転機が訪れる。松岡の代のエースである矢吹昌平が、投手生命を左右する大アクシデントに見舞われたのだ。
「誰もが、監督の弟である矢吹のことをエースと認めていました。でも、通学中の伯備(はくび)線で大けがをしてしまった。この通学時間帯はいつも超満員でものすごく混んでいる。清音駅の近くで大きく曲がるんだけど、そのときにお客に押されて窓ガラスに右手をついたらガラスが割れて右手の腱を切ってしまった。それでなぜか僕がピッチャーをやることになってしまったんだ」
それは、星野たちの代が引退し、松岡の代による新チームが発足した直後のことだったという。それまで、「まったく投手に興味がなかった」という、後のエースピッチャー誕生の瞬間となった。
「それが、当時高校3年だった星野さんが、夏の岡山県大会で敗れてチームを去った直後の話。だから僕は星野さんと一緒に投球練習をしたことはないんだよね」
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
この記事をシェアする
この記事のタグ
関連記事









