「オレがGMなら星野は監督にしない」高田繁が考える“闘将”星野仙一の功罪
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一
アップデートされた「令和版・星野仙一」が誕生していたかも?
仮に今、星野が50代で、体力的な不安がなかったとしたら、どこかの球団で「星野監督」が誕生する可能性はあるのだろうか? この質問に対して、高田は隣に控えるベイスターズ広報に問いかけながら口を開いた。
「仮にベイスターズの監督だとして、牧(秀悟)が星野についていくと思うか? 無理だよな。いや、もしかしたら……」
少しだけ言いよどんだ後に高田は言った。
「……いや、星野はああ見えて器用なタイプだし、柔軟性もある。親分肌で、人の使い方には長けている。ひょっとしたら、今の時代に合わせることができるかもしれない。《令和版・星野仙一》が誕生していたかもしれないね」
インタビュー終了時間が迫っていた。最後に一つだけ尋ねる。「星野仙一という人物をひと言で表すとしたら?」と。視線を泳がせながら、高田は言った。
「彼は政治家に向いていたと思いますよ。アイツは、金を集めるのがものすごくうまい。“この人はオレに金を出してくれるぞ”という嗅覚がものすごく働く。ただ、アイツの場合は集めた金をきちんと選手や裏方に還元する。まさに《飴と鞭》ですよ。プロはやっぱりお金だから。お金を集める政治力、資金力。アイツは政治家向きですよ」
そして、「ひと言で彼を表現するとしたら……」と続けた。
「星野の場合は《親分肌》。これに尽きるんじゃないのかな?」
現代の感覚からすれば、「鉄拳制裁」に象徴される「星野式指導術」に眉をひそめる向きも多い。一方で、過去と現在を同じ尺度で図ろうとすることへの是非もある。星野が放ったまばゆすぎる光彩は、選手を強烈に輝かせる一方で、深い影を生み出しているのも事実だ。
「星野は味方も多いけど、敵も多い。やはり、どうしても暴力的なイメージは拭えない。恐怖政治を敷いて、力で押さえつけるようなやり方に抵抗を示す人も多い。でも、それも含めて星野仙一なんですよ」
大学時代の星野を知る高田は、かつての後輩をこのように総括した——。
高田繁が考える星野仙一とは?――“親分肌”
(第三回・田淵幸一編に続く)
Profile/高田繫(たかだ・しげる)
1945年7月24日生まれ。浪商高校、明治大学を経て、1967年ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。1年目からレギュラーとなり新人王を獲得。川上哲治率いるジャイアンツV9の立役者の一人となる。「塀際の魔術師」の異名を持つ守備の名手でもあり、ベストナイン4回、ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)は6回受賞。現役引退後は日本ハムファイターズ、東京ヤクルトスワローズの監督も務める。また、2005~07年はファイターズGM、12~18年は横浜DeNAベイスターズGMも務めた。1学年先輩として、明治大学時代の星野と身近に接してきた。
Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ。倉敷商業高校、明治大学を経て、1968年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役時代通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスに監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。
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インタビュー&文=長谷川晶一
撮影=大村聡志
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この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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