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連載Back to 90s

RIP SLYMEが語る「まだ何者でもなかった頃」原宿で駆け抜けた1990年代ヒップホップ

執筆者: 編集者・ライター/高田秀之

雑誌smartが創刊30周年を迎える2025年。そのアニバーサリーイヤー特別企画として、1990年代に数多くsmartの表紙を飾っていただいた方々に当時の話を伺う連載『Back to 90s』。第8回のゲストは、2001年のデビュー以降、順調にヒットを飛ばし、2ndアルバム『TOKYO
CLASSIC』は日本のヒップホップアーティストとしては初のミリオンセラーを記録したRIP SLYME。メンバーの脱退や活動休止などを経て、今年オリジナルメンバーで再結成した彼らが語るデビュー前の時代とは?

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「90年代は『smart』のストリートスナップとかにも出てた気がします」

2025年4月からPES、SUがメンバーに復帰し再び4MC+1DJ編成になったRIP SLYMEが、デビューへの足がかりとなった1990年代から2000年代にかけてを語った

――smartの創刊は1995年なんですが、RIP SLYMEも同じ年にインディーズ・デビューしてるんですね。

RYO-Z 95年は我々5人が影響を受けたファーサイド(LA出身の4MCのヒップホップグループ)の2ndアルバムが出た年ですね。ヒップホップ豊作の年で、僕らもその時期、94、95年はヒップホップのファッションやカルチャーに思いっきり傾倒していました。

ILMARI 94年にRIP SLYMEっていうグループ名をつけたんです。

RYO-Z その年の暮れに「Young MC’s In Town」っていう先輩たちのライブイベントの新人コンテストがあって、そこに僕らもエントリーして、そこには当時違うグループにいたSUくんも参加してたんですけど、そのコンテストで奇しくも優勝しちゃって、その副賞がファイルレコードのコンピに参加できるっていうやつだったんです。で、その曲をファイルの方に気に入っていただいて、僕らのデビュー盤をリリースするっていう流れになったんですよね。

ILMARI 審査員にZeebraさんとかMummy-Dさんとかがいましたね。

RYO-Z 95年にはMELLOW YELLOWという先輩のグループのアルバムに僕らも参加したんですけど、それが初めてのプロのレコーディングでした。

――ヒップホップが盛り上がってきた時期ですね。

RYO-Z 僕たちがライブをやる頃には先輩たちがFUNKY GRAMMAR UNIT(ライムスターやイーストエンドなどから成るコミュニティ。のちにRIP SLYMEも参加)とかもやってましたし、違う先輩たちはもっと大きい会場でやったりして。僕はヒップホップはダンスのほうから入ったんですけど、日本語ラップっていうのが、できあがっているムードはありましたね。94年、95年で加速度的に盛り上がって、それが96年のさんピンCAMPに繋がった流れですよね。さんピンCAMPは雨だったんですよ。雨のライブは伝説になるって言われますけど、こっちはただキツくて、いつ帰れるんだろうって思ってました。LB祭りが翌週にあったんですけど、そっちはオシャレでしたね。可愛い女の子も多くて。さんピンに集まるのはヘッズですからね。

ILMARI そのころは音楽を聴くならWALKMAN(ウォークマン)だったよね。Bluetooth(ブルートゥース)とかなかったですから。あとはShock Wave(ショックウェイブ)。

RYO-Z それはカシオのちゃんとしたやつね。もっと安っい似たやつで聴いてました。

――その頃のみなさんのファッションはどんな感じだったんですか?

ILMARI みんな、その頃は洋服屋さんでバイトしてたんですよ。あんまりお金を持ってなかったから、そんなに量は持ってなかったけど、サイズが大きい服を着てたかな。

RYO-Z 僕はトレジャーアイランド(原宿にあったヒップホップ系のショップ)で働いてて。

ILMARI ノーウェアがあった通りだよね? その突き当たりにブラックアニーっていうショップがあって、そこはNITRO(MICROPHONE UNDERGROUND)のS-WORDくんとかがいましたね。PESくんは新宿育ちなんだけど、そのときはKREVAと一緒にCRIBで働いていたり、わりとあのへんにみんないましたね。ファットビーツっていうレコード屋にはMACKA-CHIN(DJ、音楽プロデューサー、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのメンバー)がいたし。

RYO-Z トレジャーの隣のブルズには(DJ)HAZIME がいました。あと、地下のセクスペリエンスにはジャス2(ドメスティック・ヒップホップブランド)の平野くんと平塚くんがいて。

ILMARI SUさんは恵比寿のゲーセンで働いてたんだっけ?

SU いや、95年は東銀座の割烹料理だね。フグ屋さん。こわいっすよね、俺がフグを扱うって。

ILMARI FUMIYAは原宿で一人暮らしをしてて、で、EAST ENDのYOGGYさんの実家が原宿にあって、そこにスタジオになってる部屋があったから、そこでデモテープを録ったり、泊まってそのままバイトに行ったりというのを夜な夜なしてましたね。

――たまたま原宿に集まってたんですね。

RYO-Z 『smart』のストリートスナップとかにも出てた気がします。あのへんを日曜にウロウロしてたら、“ちょっといいですか”って声かけられて。

――FUMIYAさんは洋服屋で働いてはいなかったんですか?

FUMIYA 渋谷の洋服屋で働いたこともあったんですけど、原宿に住んでいた頃はDJだけでなんとか食えてました。16歳ぐらいでしたけど、DA PUMPとかSPEEDのバックでDJとかやってましたから。

ILMARI 一番、金持ちでしたよ。俺が駐禁されたときに、お金借りたりしましたもん(笑)。スーパー高校生でしたから。よくストニュー(雑誌『東京ストリートニュース』)にスーパー高校生DJって出てたんです。ちょうど(降谷)建志と同じ時期でした。あとオジロザウルスのMACCHOとか、結構ハードコアなヒップホップの方もいっぱいいたし。僕らみたいのは、今でもあんまりいないかもしれないですけど。

――降谷くんとはその頃から面識があったってことですか?

FUMIYA TMCやる前は会ったことがなかったんですけど、建志は俺のことを知ってるって言ってました。なんかDJが上手いやつがいるって。ストニュー主催の大会とかによくDJで出ていたので。

この記事を書いた人

流行通信社、ロッキング・オン社をへて、1990年に宝島社入社。Cutie編集長ののち1995年にsmartを創刊。2024年に退社し、現在はフリー。

X:@hideyuki1961

Instagram:@htakada1961

Website:https://smartmag.jp/

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