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矢沢永吉の一言でアメリカ行きを決意──鈴木一真が語る後悔しない生き方と、90sファッション&青春のリアルストーリー

1990年代には神宮前3丁目に住んでいた

鈴木一真は20歳そこそこで海外でも活躍するトップモデルとなり、のちに本格派俳優へと転身。2015年には拠点をロサンゼルスに移し、現在も挑戦を続けている

――ジョルジオ・アルマーニやエディ・スリマンなど海外のコレクションにも出演しましたよね。

鈴木「はい、でも初めてパリに行った1991年は湾岸戦争が始まった年で、その影響で、受けまくったオーディションのコレクションはすべて中止になってしまったんですよ。フセインが水道に毒を流したって噂が広まったり、街に軍隊の人もいたし、地下鉄は危ないから乗るなとも言われて、戦争が間近に迫ってる緊張感がありました。でも、その半年後に『ベネトン』のワールドキャンペーンで初めて日本人男性モデルとしてオファーされ、ミラノやニューヨークなどで活動するきっかけになりました。

同時に、日本のバブルが弾けてストリートファッションの流れが到来して、ようやく自分の出番が巡ってきたという感覚があったんですよね。『メンズノンノ』『チェックメイト』『ホットドッグプレス』『ASAYAN』など垣根なく、ほとんどの男性誌で表紙を務めさせていただいたのは光栄でした」

――その頃は、“自分の時代が来た”という実感はありましたか?

鈴木「大好きだったアメカジやヨーロッパの古着が受け入れられる時代になり、誰よりも自信を持って着こなせると感じていました。昔から『宝島』のファッションページや、(藤原)ヒロシくんの連載、『キューティ』も欠かさずチェックしていましたから。そういう背景があって、『smart』の創刊にもすごくシンパシーを感じたし、嬉しかったですね。裏原のデザイナーたち、たとえばジョニオ(高橋盾)やNIGO®とも、彼らが文化(服装学院)の学生の頃から面識があったんです」

――そうした人たちとは、どこで出会ったんですか?

鈴木「Milkの(大川)ひとみさんのご自宅ですね(笑)。まるで(アンディ・)ウォーホルのファクトリーのように、人とは違う一癖も二癖もある方々が集まっていて、そこで多くの方と知り合うことができました。僕、90年代には神宮前3丁目に住んでいたんですよ。でも、その後の裏原ブームでパジャマで出歩けなくなりましたね(笑)」

――90年代のファッションは、それまでと何が違っていたんでしょうか?

鈴木「80年代は、雑誌が提示するコンサバスタイルを皆が素直に受け入れていた印象があります。でも90年代になると、スケーターもパンクもオタクもロックもモードも、すべてが共存する、ファッションを本質的に楽しむ時代になったと感じましたね。お店はメイドインワールドによく行ってました。あそこは裏原ブームの前から、Supremeからラルフローレンまで、いろんなブランドのもの扱ってましたから、よくスタイリストさんとも情報交換してました。

あと、当時、僕にとっては(熊谷)隆志の存在も大きかったかな。僕が彼に初めて会ったとき、彼はまだパリのエスモードの学生で、デザインの勉強をしていたから、レディースのデザイナーになると思っていたんです。でも日本に帰ってきたらスタイリストになって、ブランドも始めたじゃないですか。意外に思ったけど、エスモードで勉強した知識があったからか、一味違うというか、ブランドはもろアメリカだったけど、ヨーロッパのエスプリが感じられた」

――クラブにもよく通っていたそうですね。

鈴木「10代の頃は西麻布に通っていました。当時、六本木は賑わっていましたが、僕はあえて少し斜に構えた裏六本木的な西麻布の雰囲気が怪しくて好きでした。ピカソ(P Picasso)、トゥールズバー、レッドシューズ、ターキッシュブルー、328、20歳の頃に芝浦にゴールドがオープンして、ほぼ毎日のように顔を出していました。携帯もSNSも無い時代でしたけど、行けば誰かしら知り合いに会える、そのアナログ感が楽しかった。自分を高めるために、最先端の音楽やファッションに触れられるクラブに通っていたんだと思います。当時、知り合った人たちとは今でも続いてますよ。90年代中盤からは(熊谷)隆志くんとDJドラゴンさん主催の『ドラクマナイト』で全国のクラブでDJやバンド活動を経験させていただきました」

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