「おっさんボケェ!」と叫んだ主砲・山﨑武司が語る星野仙一との愛憎11年
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。一体、星野仙一とはどんな人物だったのか?彼が球界に遺したものとは何だったのか?彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第6回は、星野ドラゴンズ政権下で主砲も担った山﨑武司に話を聞いた。【山﨑武司インタビュー全2回の2回目/第1回を読む】
「20キロ痩せてこい!」山﨑武司が明かす星野仙一の荒療治と覚醒前夜

山﨑と大豊を天秤にかけた星野仙一
星野仙一が中日ドラゴンズの監督に復帰した1996(平成8)年、自身初となるホームラン王のタイトルを獲得した山﨑武司の活躍もあって、チームは2位に躍進した。しかし、翌97年は一転して最下位に沈んだ。原因は明白だった。この年開場したナゴヤドーム(現・バンテリンドーム)に適応できなかったためである。山﨑が述懐する。
「それまでのナゴヤ球場から一転して、大きなナゴヤドームになりました。でも、チームとして広い球場に対応できなかった。そこでトレードをすることになりました。星野さんの指導者としての大きな特徴は、血の入れ替えを行い、チームを活性化することです。このとき、ドーム球場に対応した機動力野球を実践するために、大豊(泰昭)さん、そして僕がトレード候補になったんです」
ナゴヤ球場最終年である96年、山﨑は39本、大豊は38本塁打を記録していた。しかし、守備の負担が増えたことも原因となり、ナゴヤドーム元年である97年は一転して、山﨑の本塁打数は19本、大豊は12本と激減。足も使えて守備にも定評のある選手の獲得が急務となった。そこで星野が考えたのが、守備力に難のある大豊、もしくは山﨑を放出し、守備力、機動力のある選手を獲得することだった。
星野の腹心として長きにわたって監督付き広報、個人マネージャーを務めた早川実の自著『夢の途中』には、この年の山﨑について、こんな一節がある。
《山﨑は常にホームランを意識して、三振でも外野フライでもアウトはアウトという考え方。広いナゴヤドームになって調子がおかしくなると、大事なところで星野監督が使わなくなります。それで信頼関係がおかしくなって、「なんでおれを使わないんだ」っていうのも出てきます。タイトルを獲得するほどの選手になれば、「自分はこうしたい」「自分はこう打ちたい」と強く思うようになりますよ。ましてや山﨑は我が強い。》
それでも星野は山﨑を残した。その結果、中日からは大豊、若手捕手の矢野輝弘(現・燿大)、そして阪神タイガースから関川浩一、久慈照嘉による2対2の交換トレードが実現する。山﨑が述懐する。
「このとき、星野さんは僕と大豊さんを天秤にかけたんです。でも、僕のほうが若かった。それで大豊さんが阪神に行くことになり、僕は中日に残ることになったんです」
大げさに言えば、「星野は大豊を捨て、山﨑を選んだ」のである。それでも、山﨑の胸の内には「自分は決して星野監督に好かれていない」という思いは消えぬままであった。
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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