「20キロ痩せてこい!」山﨑武司が明かす星野仙一の荒療治と覚醒前夜
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。
一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第6回は、星野ドラゴンズ政権下で主砲も担った山﨑武司に話を聞いた。【山﨑武司インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】
「おっさんボケェ!」と叫んだ主砲・山﨑武司が語る星野仙一との愛憎11年

「僕は《星野組》の組合員ではなかった……」
「星野チルドレン」「星野組」という言葉を口にした後、山﨑武司はこう続けた。
「星野さんは僕のことをかわいがってくれたとは思うけど、それでも僕は《星野チルドレン》ではなかった。そのメンバーは立浪(和義)であり、中村(武志)さんであり、山本(昌)さん、彦野(利勝)さん、今中(慎二)で、決して僕ではなかった。ドラゴンズには、いわゆる《星野組》というのか、星野さんの組合があったんですけど、僕は組合員じゃなかった。むしろ、その組合に入らないようにしていたから……」
現役時代を振り返った山﨑は、静かに言った。どうして、自ら「入らないようにしていた」のか? その理由を尋ねると小さく笑った。
「僕は、みんなが“右向け、右”と言うなら、左に行く性格だから(笑)。ひねくれているんです。あの頃の僕が思っていたのは、“全部が全部、星野さんの言うことを聞いていてはダメなんじゃないか”ということ。決して懐かないから、星野さんとしては僕のことはかわいくなかったはず」
監督と選手の間には、圧倒的な権力勾配がある。絶対的な力関係がある中で、「決して懐かない」ことは、選手として得策ではないはずだ。それでも、みんなが右に行くなら、あえて左を目指す山﨑にとって、30年に及ぶ星野との交流は山あり谷ありの人間ドラマであった。「結局、ボタンを掛け違えたまま、星野さんは亡くなってしまいました……」と語る山﨑にとって、星野とはどんな人物だったのか?
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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