銀座の高級ステーキ、帝国ホテルのスイート、そして愛の故意死球…「星野仙一にいちばん叩かれた男」中村武志が受けた“規格外の教育”
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

「武志、目を覚ませ」と、故意死球を喰らった
星野と中村の関係はその後もさらに続いた。第一次政権となった87年から1991(平成3)年まで、さらに第二次政権となった96年から2001年まで、中村はほぼ正捕手として星野の厳しい指導の下、一流選手に成長した。
「星野さんが本当に厳しかったのは第一次監督時代のことで、二度目の監督になったときには、星野さんも年齢を重ねていたし、僕らもチームの中心選手になっていたので、以前ほど怒られることは減りました。と言っても、僕はキャッチャーだったので相変わらず叩かれていましたけど(苦笑)」
前編でも述べたように、これまでずっと中村は「殴る」という言葉は使わず、「叩く」と言っている。現在の価値観に鑑みて言葉を選んでいるのだということはすぐに理解できた。01年オフ、星野はドラゴンズのユニフォームを脱ぎ、阪神タイガースの監督に就任する。そして中村もまた、ドラゴンズを去り、森祇晶監督率いる横浜ベイスターズへの移籍が決まった。この頃、中村にとって忘れられない「ある出来事」があったという。
「ベイスターズではほとんど戦力になれませんでしたけど、僕の情けない姿が星野さんの気に障ったようです。タイガースベンチから見ていて、“中日時代のお前はそんなものではなかっただろ”と嘆いていたと、後に島野(修)コーチから聞きました。何度も、“今のアイツはたるんでいる”と怒っていたそうです。それで、“ちょっと、目を覚まさせてやれ”となったようです」
「ちょっと、目を覚まさせてやれ」とは、どういう意味か? 中村は続ける。
「明らかにわざとぶつけられたんです。相手は外国人投手で、キャッチャーは矢野(輝弘/現・燿大)でした。矢野は元中日の後輩ですから、“すいません”って謝っていたけど、別に彼のせいじゃない。間違いなく、星野さんの指示です。それでようやく目が覚めた気がしました」
ベイスターズ移籍後、中村はタイガース打線に対して厳しくインコースを突くことができなかった。無意識のうちに、「星野さんのチームの選手に万が一があってはいけない」という遠慮が芽生え、自軍投手に対して厳しくインコースを攻めるボールを要求できなかったという。
「僕のサインは、阪神の選手に対して優しかったんです。結局は自分のところではなく、相手チームのことを考えていたんです。それを星野さんは見抜いていて、“そんなんじゃダメなんだ”と間接的に伝えてくれたんだと思います」
ときは流れた。それぞれのチームも変わり、かつての師弟は、今度は敵と味方に分かれることになった。しかし、戦いの世界において情けは無用だ。星野は自分にそんなことを伝えたかったのだろう。中村は、今でもそのように理解している。
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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