「下級生への暴力なんてなかった」元ヤクルト・松岡弘が証言する、高校時代の星野仙一が怖くても慕われた理由
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

1964年、高校3年、星野の「最後の夏」
1964年、星野が高校3年、松岡が2年の夏に時計の針を戻したい。この当時の規定では、岡山大会を勝ち抜いただけでは甲子園出場はかなわず、鳥取県の高校との代表決定戦を制する必要があった。
「僕らの倉敷商業は、準決勝で米子東高校にサヨナラ勝ち。そして決勝で米子南高校と対戦することになりました。この試合は今でも忘れられないよね」
準決勝の米子東高校戦を一人で投げ抜き、同時に延長10回にサヨナラタイムリーを放ったのが、エースで四番の星野である。決勝で対戦する米子南高校には、前年秋の練習試合において16対0、7回コールドで大勝していた。このとき星野は10奪三振を記録している。
「このとき、僕はまだピッチャーになる前で試合には出ていないけど、星野さんがひたすら投げていた印象があるね。彼の場合、決して他人に任せることはしない。常に、“オレに任せろ”の人だから。とはいえ、岡山大会からずっと投げ続けていたから、さすがに疲れは隠せなかったよね……」
松岡の言葉にあるように、試合序盤こそ快調なペースで投げていたものの、1対0とリードして迎えた4回裏1死後、安打と四球で一、二塁のピンチを作ると、ここから3連打を浴びて3失点。一気に逆転を許してしまった。この間、ムキになってストレートだけを投げ続けていたという。変化球を投じることは、星野にとって「逃げ」だったのである。
「その後、倉敷商業は1点を返したけど、そのまま2対3で負けてしまった。決して、泣き崩れたり、暴れたりしたような印象はないな。でも、小刻みに身体を揺らしながら、噛みしめるように泣いているのはよくわかりました。試合後、星野さんが3年のチームメイトたちに謝っていた姿はよく覚えていますね。“甲子園に連れて行けずにすまなかった”って、みんなに謝っていたな」
この日の出来事を振り返った『朝日新聞デジタル』(2018年6月28日配信)、「星野がいた夏、1964年 夢への直球狙われた」という記事から、一部抜粋したい。
《翌朝、伯備線で米子を離れた。倉敷駅に着くと、ロータリーには出迎えの大勢の市民が待ちかねていた。「よく頑張ったっ」。無数のねぎらいの言葉がホシらに送られた。
「何が頑張ったじゃ。勝たにゃ何にもならん。腹が立つ」
照れ隠しかもしれないが、後に「闘将」と呼ばれることになるホシはそう強がった。》
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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