久々に「仙ちゃん」と呼んだのは「お骨」になったとき。親友・田淵幸一が語る星野仙一の“素顔”と“打倒ジャイアンツ”の誓い
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに7年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。
一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第3回は、大学時代からの盟友にして親友の田淵幸一に話を聞いた。【田淵幸一インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】
「嫌いな人こそ笑顔で接しろ」盟友・田淵幸一も驚いた星野仙一流“ジジイ殺し”テクニックと飴と鞭の“人心掌握術”

今でも飾られている星野との抱擁写真パネル
インタビューは田淵幸一の自宅リビングで行われた。部屋に入ってすぐに目についたのが、田淵と星野仙一が熱い抱擁を交わしている大きな写真パネルだった。両者はともに阪神タイガースのユニフォームを着ている。2003(平成15)年、セ・リーグ優勝時に撮影されたものだ。
「あのパネルは日テレ(日本テレビ)からもらったんだよ。忘れもしない、2003年9月15日。親父の命日に優勝できたんだ。赤星(憲広)がサヨナラヒットを放ってさ。苦しみ1万時間、楽しみ3分。そんな感じだったよね。このパネルだけじゃないよ。ほら、あの写真もそうだよ」
田淵が指し示した先には、明治大学時代の星野と、法政大学時代の田淵がユニフォーム姿で並んでいる写真があった。
「あれは、明治神宮大会の記念試合で選抜チームを組むことになって、初めて星野とバッテリーを組んだときのもの。やっぱり、友だちだから、いや、親友だから、一緒に撮っている写真も多いし、見えるところに飾っておきたいよね」
大学時代から気が合う間柄だった二人は、ともに1968(昭和43)年のドラフト1位で、星野は中日ドラゴンズへ、田淵は阪神タイガースへ入団。この年、田淵は見事に新人王に輝いた。以来、ライバルとしてセ・リーグを盛り上げた。現役引退後は、タイガース、そして東北楽天ゴールデンイーグルス、さらには北京オリンピック日本代表チームで、いずれも「監督とコーチ」として星野に仕え、苦楽をともにした。
「ひと言で言えば、《親友》だよね。大学の頃から始まって、ずっと《仙ちゃん》《ブチ》と呼び合う間柄だったから。でも、彼が監督になってから、オレは《仙ちゃん》と呼ぶことをやめて、《監督》と呼ぶように意識した。なぜかそれ以来、ユニフォームを脱いでからもずっと《監督》と呼んでいたな。久々に《仙ちゃん》と呼んだのは、彼が亡くなってお骨になったとき。お骨に向かって、二十数年ぶりに《仙ちゃん》って呼んだんだ……」
公私にわたって星野と深い関係にあり、ともにそれぞれのことを「親友だ」と公言していた。田淵から見た星野とは、一体、どんな人物だったのか?
この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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