「闘将」の最期は栄光か孤独か——江本孟紀が見た、星野仙一“晩年の真実”
執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一
殿上人・星野仙一と、下界とのギャップが表面化
どうして、かつて中日、阪神時代にうまくいっていたことが、北京五輪、楽天監督時代には破綻をきたし始めたのか? 江本の見解は明快だ。
「その原因はやっぱり年だと思います。年齢です。阪神時代には大阪のリッツカールトンホテルのVIPルームに滞在していた。仙台でも有数の繁華街である国分町には行かずにホテルのルームサービスで済ませていたと言います。気がつけば、殿上人の星野さんと下界との距離が大きく開いてしまっていた。奥さまを亡くしたこと、参謀の島野(育夫)さんを亡くしたこと、こうしたこともあって、次第に歯車がズレていったのだと思います」
2018年1月4日、星野は70歳でこの世を去った。江本が最後に会話を交わしたのは、その前年12月に行われた星野の殿堂入りパーティーだったという。大学時代から交流のあった江本は、「星野仙一」という稀代の野球人をどう見ているのか?
「大学時代に《威嚇と笑顔》という二面性を感じたように、星野さんはずっと《星野仙一》を演じていました。そういう意味では《役者》と言えるのかもしれない。でも、政治家経験のある僕からすれば、星野さんこそ《政治家》です。マスコミを味方につけたり、選手の奥さんの誕生日に花を贈ったり、政財界とのパイプを作ったり、政治的な立ち回りに本当に長けていた人でした。星野さんをひと言でいうのなら、《政治家》が相応しいと思うね」
参議院議員選挙において二度の当選を誇る江本は「僕よりも政治家らしい政治家だった」と、星野のことを総括した——。
江本孟紀が考える星野仙一とは?――“政治家”
(第二回・高田繁編に続く)
Profile/江本孟紀(えもと・たけのり)
1947年7月22日生まれ。市立高知商業高校、法政大学、熊谷組を経て、1970年ドラフト外で東映フライヤーズに入団。翌72年には野村克也に請われ、南海ホークスへ移籍。76年から阪神タイガースのエースとして活躍。舌禍騒動により、81年オフに引退。その後、タレント、歌手、作家、参議院議員として活躍。現在も野球評論家として『プロ野球ニュース』などに出演中。歯に衣着せぬ「エモやん節」は健在。1学年上の星野とは、東京六大学時代に対戦。
Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ。倉敷商業高校、明治大学を経て、1968年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役時代通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスに監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。
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撮影=大村聡志
インタビュー&文=長谷川晶一
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この記事を書いた人
1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。
お問い合わせ:smartofficial@takarajimasha.co.jp
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