smart Web

「闘将」の最期は栄光か孤独か——江本孟紀が見た、星野仙一“晩年の真実”

執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

江本孟紀が中日、阪神、北京五輪日本代表、そして楽天と各監督時代を語った

「オレは仙台の人に嫌われている」

 その人生を概観したとき、「星野さんの長い監督人生において、北京五輪は最大の屈辱だったはず」と江本は言う。

「中日、阪神監督時代は、地元マスコミが星野さんを守っていたので、決して批判にさらされることはなかった。けれども、日本中が注目するオリンピックの舞台では、そうはいかなかった。日本代表チームを取り仕切る《全日本野球会議》が星野さんを守る理由はない。金メダルどころか、銅メダルすら獲れなかった以上、その敗因を分析、検証する必要がある。星野さんの采配や振る舞いが表沙汰になるのも、当然のことでした」

 翌09年に行われる予定のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の代表監督に内定していたものの、世論を含めた関係各所から疑義が呈されたことで、この話は白紙撤回された。この頃から、星野の野球人生は新たな局面を迎えることになった。

「2010年秋、星野さんは楽天の監督に就任することが決まりました。そして、就任3年目の13年にはマー君(田中将大)の活躍もあって、チーム初となるリーグ優勝、そして星野さんにとっても初めてとなる日本一に輝きました。でも仙台では、それまでの名古屋や大阪のような人気を博すことはできなかった」

 江本の自著『僕しか知らない星野仙一』(カンゼン)には、楽天初となる優勝を目前に控えた13年9月、報道陣を前にした星野について言及されている。

《「仙台のファンがオレのことを好きじゃないことなんて前からわかっていた。だが、それでもいい。オレは最後に胴上げされればいいんだ」

 楽天が優勝した翌日のスポーツ紙で、星野さんのこのコメントを目にした。

 優勝すれば、今までのモヤモヤした気持ちはすべて吹き飛ぶ——そう考えていたのかもしれないが、一方で、僕は不思議に思った。今までならばこうしたコメントを載せれば、「おい、これはどういうことだ?」と記事を書いた記者を呼んで封じ込めていたはずだ。》

 この点について、江本が解説する。

「この頃になると、それまでの星野さんのやり方は通用しなくなっていました。仙台の人の気質なのか、それとも時代が変わったのか、星野さんのやり方が古くなってしまっていた。そして、そのことを星野さん自身も実感していたんです」

この記事を書いた人

1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。

X:@HasegawSh

執筆記事一覧

この記事をシェアする

この記事のタグ

28

11:01

smart Web の
記事をシェア!

この記事をシェアする

関連記事

smart(スマート)公式SNS