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「闘将」の最期は栄光か孤独か——江本孟紀が見た、星野仙一“晩年の真実”

執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

江本孟紀が中日、阪神、北京五輪日本代表、そして楽天と各監督時代を語った

3年契約途中で、優勝を置き土産に自ら退陣

 その後も星野は、本人の思惑通りの順調な道のりを歩んでいく。中日監督として、87~91(平成3)年までは第一次政権、さらに96~01年までは第二次政権、2期11年間にわたって指揮を執り、87年、99年の二度、リーグ制覇を果たした。江本は言う。

「現役引退時がそうだったように、中日の監督を経て、星野さんは“東海圏では終わらない”という野望を持って01年オフにすぐに阪神の監督になります。退任直後の同一リーグでの監督就任だから、当然批判もありました。でも、ここが彼の真骨頂です。就任記者会見で星野さんは、“私はガキの頃からタイガースファンでした”と言いました。あれほど巨人ファンだったのに、たとえ建前であっても、ここまでサラッと言えてしまうのは、球界広しといえども、星野さんしかいないでしょう」

そして星野は就任2年目となる03年に阪神を優勝に導いた。それでも、それを置き土産にわずか2年で退陣する。江本が続ける。

「ここも星野さんの上手なところです。就任2年目でタイガースを優勝に導いた。でも、3年契約で残り1年あるにもかかわらず、この年限りでユニフォームを脱ぎます。連覇をできないことをわかっていたから。泥沼に陥る前に、いいイメージだけを残してチームを去る。その後はオーナー付SD(シニアディレクター)としてチームに影響力を残しつつ、決してイメージを損ねることのないまま退陣をする」

 この頃、星野には高血圧症の疾患がたびたび見られたという。当時、阪神に在籍していた広澤克実が「試合中、ベンチ裏で倒れている星野さんを見た」と証言しているように、「健康上の理由」による退陣だと説明された。それでも江本は「退任するまでもなかったはず」と口にする。

「星野さんは、さらにその先を見据えていました。中日、阪神のその先です。そして2007年には、ついに日本代表監督になりました。でも、結果的に翌08年の北京五輪の《星野ジャパン》は、彼にとっての大誤算となりました……」

 北京五輪において、星野が率いた日本代表チームは金メダルを獲得することはできなかった。本戦では4位に終わり、1次リーグの韓国戦では和田毅の交代のタイミングを見誤り、試合後には「オレのミス」とコメントした。準決勝で痛恨のエラーをしたGG佐藤に「もう一度、チャンスをやりたい」と臨んだ3位決定戦でも再び起用したものの、この日もGGのエラーで日本は敗れた。

「このとき、2試合続けて救援に失敗した岩瀬(仁紀)に三度目のチャンスを与えて失敗したり、レフトの守備に不安のあるGG佐藤を続けて起用したり、采配面での疑問が目立ちました。さらに、あえて名前は出さないけれど、大会期間中に一部の主力選手に鉄拳制裁を見舞ったという話もありました。中日、阪神時代と比べて、この頃から星野さんを取り巻く環境は大きく変わっていきました」

この記事を書いた人

1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。

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