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星野仙一は野球人か、役者か?江本孟紀が明かす「威嚇と笑顔」で球界を生き抜いた“燃える男”の処世術

執筆者: ノンフィクションライター/長谷川 晶一

出会いは星野仙一は明治大学4年、江本孟紀は法政大学3年の時。六大学時代から“闘将”と交流があった江本孟紀

「野球選手というより、むしろ役者だった」

 その翌日、「昨日の態度は何だ!」と、稲尾が星野を問い詰めると、星野はこんなことを口にしたという。江本が著した『僕しか知らない星野仙一』(カンゼン)から引用したい。

《「稲尾さんはまだ名古屋に来て日が浅いからわからないのでしょうが、私は『燃える男』と言われているんです。どんな状況でも弱気なところは見せられないんです」

 つまり、星野さんは「星野仙一を自ら演じていた」のだ。お客さんからどう見られているか、それを星野さんなりに咀嚼し、みんなが考えている「星野仙一」をイメージ通り表現する。つまり、星野さんが持っている二面性を、マウンドという舞台でフルに使っていたというわけだ。》

 この箇所について、改めて江本に解説してもらった。

「稲尾さんが怒るのももっともです。何しろ、星野さんは言っていることとやっていることが違うのだから。そうなると、野球選手というよりは役者ですよ。自分がどう振舞えばファンは喜んでくれるのかを熟知している。それは学生時代も、現役時代も、監督時代も、いや、亡くなるまでずっと変わらない星野さんの二面性であり、役者性でした」

 江本が注目するのは、82年オフ、通算146勝121敗34セーブで現役を引退した後の星野の振る舞いである。現役引退直後、先に引退していた江本の下に、星野の側近がやってきたという。

「星野さんの引退直後、彼の側近の新聞記者が僕のところにやってきた。“引退後はどうやって生きていけばいいのか?”を聞くためです。当時の僕は初めて出した本(『プロ野球を10倍楽しく見る方法』・KKベストセラーズ)が200万部を超えるベストセラーになり、バラエティー番組に出たり、映画に出演したり、多方面で仕事をしていた。それで、アドバイスを求めに来たんです」

 しかし、江本は「私にはアドバイスはできない」と、その申し出を拒絶する。

「私の場合は、“ベンチがアホやから野球がでけへん”という舌禍騒動で球界を去ることになった。だから球界に戻ることはできないから、野球解説を辛うじてやりながらもタレントみたいにテレビに出たり、歌を歌ったり、芝居をしたり、食うためには野球以外の仕事をした。でも、星野さんは球界での将来は監督になるエリートラインにいるのだから、余計な活動などせずに、まずは解説者をやったほうがいい。そんなことをアドバイスしました」

 この言葉をどう受け止めたのかはわからないが、実際に星野は江本のアドバイス通りのアクションを起こす。引退直後の83年から、中日監督就任前年の86年まで、星野はNHKの専属解説者を務めている。テレビではNHK、新聞では古巣の親会社である『中日スポーツ』ではなく、『日刊スポーツ』の専属となった。

「これこそ、まさに星野さんの処世術ですよ。NHKの出演料は安いです。それでも、NHKに出ることには大きなメリットがある。おそらく、星野さんの下にはたくさんのオファーがあったはず。それでも、名古屋のテレビ局ではなく、どうして星野さんがNHKを選んだのか、朝日新聞系列の日刊スポーツを選んだのか? 簡単ですよ、東海圏のスターから全国区の知名度を求めたからです。そして、そのために利用したのが、川上哲治さんです」

 現役時代は「打倒巨人」を掲げて、ジャイアンツには人一倍の闘志を燃やしてマウンドに立ち、アンチジャイアンツの留飲を下げていた星野仙一。彼は、どうしてジャイアンツV9の象徴であり、球界のドンである川上を頼ったのか? そこには「星野さんなりのしたたかな計算があった」と江本は言う——。

(江本孟紀編・後編に続く)

出会いは星野仙一は明治大学4年、江本孟紀は法政大学3年の時。六大学時代から“闘将”と交流があった江本孟紀

Profile/江本孟紀(えもと・たけのり)
1947年7月22日生まれ。市立高知商業高校、法政大学、熊谷組を経て、1970年ドラフト外で東映フライヤーズに入団。翌72年には野村克也に請われ、南海ホークスへ移籍。76年から阪神タイガースのエースとして活躍。舌禍騒動により、81年オフに引退。その後、タレント、歌手、作家、参議院議員として活躍。現在も野球評論家として『プロ野球ニュース』などに出演中。歯に衣着せぬ「エモやん節」は健在。1学年上の星野とは、東京六大学時代に対戦。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ。倉敷商業高校、明治大学を経て、1968年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役時代通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスに監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

撮影=大村聡志
インタビュー&文=長谷川晶一

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この記事を書いた人

1970年生まれ。早稲田大学卒業後に出版社へ入社し、女子高生雑誌『Cawaii!』などのファッション誌の編集に携わる。2003年からフリーに。ノンフィクションライターとして活動しながら、プロ野球12 球団すべてのファンクラブに入会する「12 球団ファンクラブ評論家®」としての顔も持つ。熱狂的な東京ヤクルトスワローズファンとしても知られ、神宮球場でのホームゲームには全試合駆けつける。単行本が7刷となり文庫化もされている『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(単行本:インプレス、文庫:双葉社)をはじめ、ヤクルト関連の著書・連載多数。スポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』(文藝春秋)にも定期的に寄稿中。日本文藝家協会会員。

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